◇寺の沿革

室町時代、応永29年(1433年)11月29日の深夜、伊勢湾の方より奇異なる霊光が飛び來り当山の旧跡地西条の沢山に至って消えること15日間に及んだ。ときの神戸(かんべ)城主は神戸家二代実重で、伊勢国司北畠満雅が称光天皇に奉上し帝これを占わしめると、東海龍王の瑞光であるから此地へ禅寺を建立して国家安泰を祈るべしとのことであった。天皇は満雅を開基とし、神戸実重を普請奉行として天澤山龍光寺を創建した。
 旧記に「諸堂塔頭(たっちゅう)六十四院軒を並べ碧瓦朱欄の旭日に輝きいと荘厳なりき云々」とある。帝は学徳兼備の誉れ高き悦叟大忻禅師に紫衣を与え、河内の光通寺に使者をたて禅師を開山に迎えた。紫衣を許す綸旨(りんじ)は江戸時代幕府がその権利を朝廷から取り上げる(紫衣事件)まで天皇から当山歴代住持に与えられた。戦国時代の波を受け天文年中堂宇悉く烏有に帰したが、後奈良天皇は再興を命じ紫衣を許したうえその寺格を南禅寺に準ずると位置づけた。
 当寺には現在も後奈良天皇、正親町天皇(二通)、後陽成天皇らの御綸旨のほか太閤秀吉(三通)以来徳川歴代将軍の朱印状が保存され、神戸城主本多忠統(ただむね)はじめ代々城主の寄進状、末寺文書、記録は二百点に及ぶ。
 神戸
( かんべ)
家には織田信長の三男信孝も養子に入ったが、天文の頃西条の地から今の神戸の地に龍光寺とともに神戸城も移り、現在神戸公園の神戸城趾天守台の石垣(県文化財指定)は信孝が築いたもので当寺の南方200mのところに当時の面影を残す。
 当寺の歴代の住職は朝廷への参内や将軍への定例独礼を七年に一度と定められ、将軍家の慶弔、住職交替時には朱印籠を行列に加え江戸へ赴かねばならなかった。朝廷や幕府の記録にも当山の綸旨の件、お茶や巻数(かんす)、綿など献上の件などが記されていて興味深い(「御所お湯殿日記」他)。 
 中興(第九世24代)虎伯大宣(こはくだいせん)禅師は家光に「碧厳録」を講じ召されて江戸にも同じ天澤山龍光寺を建立、徳川光圀の命を受けて朝鮮通信使を迎えるための公文書作成に功大きく、光圀は宗家(対馬)・小笠原家・京極家・藤堂家に寺を拡充させた。豊橋に万年山臨済寺、その他10ヶ寺に余る伊勢地方の寺の開山となった。
 天明年間第十四世36代の名僧大拙道寛禅師はじめ当寺より東福寺に住した和尚も多く、世に古刹霊場といわれる寺は少なくないが地方に在って、開山以来長い時代の変遷を経てなお、その伝統と由緒の正しさを連綿と伝える寺は少なく、当地方の文化・歴史面でも大きく貢献してきたことが伺われる。 
格別の由緒により臨済宗東福寺派の「別格地首班」の寺格を有している。
寺の略歴












         

龍光寺の沿革



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